Se connecter久我山の声で、部屋の空気が整った。「本日の聴聞は、白鳥澪氏からの申立てに基づき、白鳥家関連財産の管理、菜月氏の死亡前後の記録、ならびに提出された戸籍関連資料の真偽について確認します」 言葉は固い。 けれど、固い言葉ほど逃げ場がない。誰かの涙や怒鳴り声で曖昧にできない場所へ、ひとつずつ釘を打たれていく。 私は目の前のファイルを開いた。 最初のページには、母の告発状の写しがある。次のページには、投薬記録。さらにその後ろに、港の書記官から受け取った封筒の記録。 紙は順番に並んでいた。 私の心だけが、まだ順番通りではなかった。 久我山が清隆へ視線を向ける。「白鳥清隆氏。申立人との関係について確認します」 清隆は椅子に深く座ったまま、片手をテーブルに置いた。「確認するまでもない」「確認のためです」 久我山は少しも揺れない。 清隆の眉が動いた。「その娘は」 娘、という言い方なのに、そこには何も入っていなかった。 私はペンを持ち直した。 父の声が、部屋の真ん中へ落ちる。「私の子ではない」 音が消えた。 誰かが息を止めたのが分かる。莉々花の唇が開く。瀬里奈は顔を伏せ、ハンカチで口元だけを隠した。 分かっていた。 記事も、偽戸籍も、公開聴聞の場で彼が何をするかも、予想はしていた。 なのに、胸のどこかが一拍遅れて折れた。「子ではない」という言葉より、父が迷わず言い切ったことの方が胸に刺さった。ファイルを開く手が止まる。 紙の角が、爪の下に入った。 痛い。 その痛みで、呼吸が戻った。 私は顔を上げた。 久我山がこちらを見ている。続きを促さない。慰めもしない。ただ、聞き取る人の目で待っていた。 私はページを一枚めくった。「では、こちらを確認してください」 声は少し低かった。 でも、出た。 清隆の前に、古い契約書の写しを差し出す。 清隆は、私の反応を見ていた。
「明日、午後二時。財団理事会室で始めます」 調書に残る。その言葉は冷たかった。けれど、白鳥家で消され続けたことを、初めて誰の目にも残る記録にしてくれる言葉でもあった。 机の上の私の左手には、指輪の跡だけが白く残っていた。 翌日、午後二時。 財団理事会室は、思っていたより明るかった。 壁一面の窓から、冬の薄い光が入っている。大きな楕円形のテーブル。並べられた水のボトル。名前の札。録音機。部屋の隅には記者ではなく、議事録担当の職員が座っていた。 公開、といっても劇場ではない。 けれど、白鳥家で開かれる家族会議より、ずっと逃げ場がなかった。 入口で足を止めると、案内係が席を示した。「白鳥澪様はこちらです」 札には、申立人とだけ書かれていた。 鷹宮副社長婚約者、ではない。 白鳥家長女、でもない。 申立人。 それだけで、膝の奥に入っていた力が少し戻った。 椅子に座る。左手を膝の上に置いた。指輪の跡は、朝より薄くなっている。それが少し寂しくて、少し助かった。 征臣は斜め後ろの証人席に立ったまま、私の椅子には触れなかった。 ボトルへ伸びかけた征臣の手より先に、私は自分で取った。 蓋が一度滑る。 征臣の手が少し浮いたが、今度は止まった。「自分で開けます。……でも、ありがとう」「分かった」 返事が少し早くて、胸の底の固さがわずかにずれた。 その時、扉の外がざわついた。 白鳥清隆が入ってきた。 紺のスーツ。銀のネクタイ。いつものように、白鳥家当主の顔をしている。後ろには瀬里奈と莉々花が続いた。 莉々花は淡いピンクのワンピースを着ていた。泣いた後に見えるよう、目元だけを薄く赤くしている。視線が私の左手に落ち、すぐに征臣へ移った。 空の指を見たのだと思う。 清隆も同じ場所を見た。 唇の端が、かすかに上がる。「外したのですか」 その声は、父親のものではなかった。 家の持ち物を見て、
相沢が声を落とした。「持ち出したのは、白鳥清隆氏で間違いありませんか」 真理は頷いた。名前を口にすることはできないようだった。「そのあと、菜月様は」 真理の指が止まった。 録音機の赤いランプだけが、小さく光っている。「奥様は、それでも旦那様を信じようとしていました」 その言葉は、ほとんど息だった。 私は母の手紙に触れた。 翌朝、久我山麗子は約束の時間ちょうどに現れた。 グレーのスーツに、装飾のない黒いパンプス。秘書が案内するより先に部屋の位置を把握している歩き方だった。会議室へ入ると、征臣にも私にも頭を下げすぎない角度で会釈する。「公開聴聞の座長を務めます。久我山です」 声は硬い。 冷たいというより、感情を交えない人の声だった。 相沢が資料を渡す。久我山は椅子に座る前に、表紙の申立人欄を見た。 白鳥澪。 その名前の上に、保留印はない。 久我山は顔を上げた。「申立人ご本人の意思で提出されたものとして扱います。よろしいですね」 征臣ではなく、私を見る。 私は頷いた。「お願いします。……鷹宮家の名前で出したくありません」「つまり、鷹宮家の関係者としてではなく?」「はい。白鳥澪として」 久我山の目は、少しも柔らかくならなかった。 けれど、紙の端に置かれた指が一度だけ止まった。「分かりました。では、調書に残します」 調書に残します。 その言葉は、怖いのに、かすかに救いにも聞こえた。 白鳥家で消されてきたものは、いつも紙に残らなかった。母の部屋が変えられたこと。指輪を取られかけたこと。私が嫌だと言ったこと。家族の誰も、何かの紙には残さなかった。 久我山は真理へ向き直る。「宮野真理さん。あなたの証言は、明日の場で確認します。今日ここで私情を聞くつもりはありません」 真理の肩がびくりと動いた。「……そのつもりです」「分
中から出てきたのは、薄い茶封筒だった。 角が何度も持たれたように柔らかくなっている。表には母の字で、私の名前が書かれていた。 白鳥澪へ。 胸の内側が、急に狭くなる。「菜月奥様から、お預かりしていました」「どうして今まで」 声が硬くなったのが、自分でも分かった。 真理の睫毛が落ちる。「怖かったからです」 言い訳ではなかった。 あまりにそのままの言葉で、返す言葉が遅れた。「旦那様も、瀬里奈様も、笑っておっしゃるんです。あなたのために、と。奥様のために、と。そう言われると、私はいつも、何も言えなくなりました」 白鳥家で聞き慣れた言葉が、別の人の口からこぼれる。 私は封筒を受け取った。 紙は軽かった。軽いのに、手が沈むような気がした。 真理は膝の上で両手を重ねた。「でも、もう黙りません」 その声は震えていた。 震えているのに、途切れなかった。「明日の公開聴聞で、私がお話しします。奥様が何を恐れていらしたのか。誰が書類を止めたのか。私が見たことだけを」 征臣の視線が一瞬だけこちらへ動いた。 私は封筒の表を見た。 母の字は、まだ私の名前をまっすぐ呼んでいた。 真理の証言確認は、夜になっても終わらなかった。 鷹宮邸の小さな会議室には、冷めた紅茶のカップが三つ並んでいる。誰も飲みきれなかった。カップの縁に薄く残った茶色の輪だけが、時間の長さを教えていた。 相沢が録音機を置く。「無理に思い出そうとしなくて構いません。見たこと、聞いたこと、残っていることだけで十分です」 真理は頷いた。 頷いたのに、唇はすぐには動かなかった。 私は封筒の中身を机に広げる。母の手紙。古いUSBの合言葉を書いたメモ。未提出の告発状の写し。投薬記録のコピー。どれも紙の色が少しずつ違う。 生きている間、母は一人でこんな紙を集めていた。 そのことを考えると、胸の奥が冷える。「奥様は、亡くなる一月ほど前から、薬の管理を変えるように
その声が終わるより早く、別の秘書が封筒を持って入ってきた。「白鳥家側が、記者向けの追加資料を配布しました」 封筒の表には、白鳥家の家紋が押されている。開く前から、紙の向こうで父と瀬里奈さんがこちらを見ている気がした。 提出手続きを終えて戻った相沢が、一枚目を読み上げる。「白鳥澪氏は、鷹宮家の利害に誘導され、家族を告発している可能性がある――」 続く行には、莉々花の名前で短いコメントが添えられていた。お姉様を信じたい。でも、怖い。どうか家族に戻ってきて。 吐き気がした。戻る場所を壊した人たちほど、戻ってこいという言葉を使う。 征臣の目が一瞬で冷えた。「発信元は調べる」「必要なものは揃える。出すかどうかは、あとで話そう」 その「あとで」に、ようやく息が混じった。 右手が、空になった左手を探した。 そこにはもう指輪はない。 征臣は近づかなかった。私も近づいてほしいのか分からなかった。答えが出ないまま、同じ部屋にいた。 代わりに、さっき書いたばかりの自分の名前の感触が残っていた。 部屋を出ようとした相沢が、廊下で足を止めた。「白鳥家から、もう一通届いています」 封筒は薄かった。中身を見なくても、嫌な軽さがある。 同意撤回書。 申立人欄には、私の名前が印字されていた。けれど署名の筆跡は、私のものではない。丸く、少し甘い線。莉々花が昔、私のノートに勝手に名前を書いた時の癖が残っていた。「……まだ、私の名前を使うつもりなんですね」 怒りが、静かに息をした。 征臣は何も奪わなかった。ただ、証拠袋を一枚、私の前に置いた。「証拠袋に入れる。……俺が触らない方がいいか」「はい。私がやります」 私はその紙を、自分の手で袋に入れた。 宮野真理は、思っていたより小さな人だった。 療養施設で会ったときより背中が丸く、廊下の照明の下に立つ姿は、紙の端のように頼りない。薄い灰色のコートを胸の前で合わせ、片手には古い革の
会議室の端で、黙って立っている。いつもなら場を動かす人が、今日は場を譲っている。その沈黙が、まだ痛くて、少しありがたかった。 相沢が提出の手続きのため、部屋を出る。 扉の閉まる音が、会議室に残った。空調の風で、机の上の控えがかすかに揺れる。さっき書いたばかりの私の名前が、まだ濡れているように見えた。 征臣は壁際に立ち、口を挟まなかった。その黙り方まで正しく見えて、余計に腹が立った。「何ですか。今度は、どの書類を私に内緒で止めますか」 声が低くなった。目の奥が熱い。怒っているのに、少し泣きそうで、それがまた腹立たしい。 征臣がこちらを見る。「澪」「今は、名前を呼ばないで」「名前を呼ばれると、言えなくなるから」 言い切ると、空になった左手が膝の上で強く握られた。 征臣は一度だけ息を吸い、目を逸らさなかった。「あなたが私を傷つけようとしたんじゃないのは、分かってます。……でも、黙って決められるのは、もう無理です」 征臣の口が動きかけ、閉じた。 その沈黙を待った。 左手には、指輪を外した跡がまだ薄く白い。 征臣は黙った。 謝罪を待っているわけではなかった。「……今、謝らないで。まだ私、終わったことにできないので」 征臣の口が開きかける。「まだ、聞いていて」 征臣は口を閉じた。謝罪の形へ整いかけた言葉が、そこで止まったのが分かった。私は濡れた署名へ視線を戻した。 今は、それでよかった。 机の上のペンを指で押すと、申立書の控えに当たって止まった。「次に止めたくなったら、先に私を呼んでください。勝手に出さないで」 征臣はしばらく黙った。「……分かった。いや、そうする」 返事が早すぎて、かえって不安になる。私は申立書の署名へ目を落とした。「簡単に言わないでください」 征臣は返事をせず、机の上の申立書を見た。私の署名の横には、彼の名前はない。そこを確か